4/18 小学校からなぜか支援食料物資が来る

小学校から長男が帰ってくると、何やら大きな荷物を持っています。
新鮮な野菜、果物、牛乳、お菓子、シリアルなどが入っていました。しかも、けっこう良い品質のものです。
2ヶ月に1度ほど、こういう配給があるようです。
次女は胃腸炎で学校を休みましたが、もし登校していたら彼女も一式もらっていたことでしょう。


子どもたちが通う学校は低所得者支援学校でもあるので、こういう支援があるようです。正直なところ我が家はそこまで困窮しているわけではないので恐縮してしまいます。
後日学校で先生とお話したとき、正直にこの恐縮な思いを話したところ、「かといって君はOK、君はだめ、のように区別して渡すことも現実的ではないから、全員に配っているので受け取っていただければよろしいです」とのことでした。なるほど。

あまり自分たちでは買わない新しい食材をいただくこともあり、異文化交流という意味では勉強させていただいてます。我が家の料理の幅も広がります。
たとえば赤い甘い大根のようなビーツとか。

ワシントン大学で私の取得したJ1ビザ渡航者向けレクチャーを受けたとき、『J1は「交流ビザ」です。研究だけでなく、あなたはアメリカのさまざまな文化に触れてください。そしてこれから、アメリカとあなたの国をつなぐアンバサダーとなってください。ようこそアメリカへ』と言われたことを印象的に覚えています。この配給体験も私の使命の一環と思い、謹んでいただきます。

学校の朝食無料サービスについても、なんだかんだで子どもたちは気に入っているようで、しっかり家で朝ごはんを食べているものの、通学直後に食堂でちゃっかり朝おやつ感覚でいろいろ飲食しているようです。

「みんなによい教育と生活を」という大義のもとで、我が家はその恩恵に過分にあずかっているように思います。

どなたかは存じませんが、経済的に支援してくださっているであろう方々に感謝します。

P.S.
ただの印象論なんですけど、アメリカ・シアトルの人は、モノやサービスを受けることについてとてもサッパリしているように思います。どのように行動すれば自分が受けられる利益を最大化できるか、とかあまり考えないような印象です。たとえば「ご自由にお持ちください」という機会があったとき、一部の方によって一瞬で全部なくなるようなことが経験上、少ないです。自分が必要なぶんを頂いたら、頂いたぶんに感謝し、ありがとう、という感じです。多少多くを持っていく人がいても、まあ彼らはそれだけ必要なのだろう、という感じで、特に追求しない。
食べ放題・飲み放題でも、どうすればもとをとれるか、などとはあまり考えていないのではないでしょうか。
こういう状態を表現する言葉で、批判的・差別的でないものがなかなか思いつかないのですが、要するに執念深くないんです。
私は周囲の人間が利益追求に走っていると、同じ資源の取り合いの中で自分が不利益を被らないように自衛的な利益追求をしようとして疲弊してしまいがちなので、このような風土はこころが休まります。

たぶん受け取ることと対をなすように、与えることについても私達とは違う行動様式を持っていると思うのですが、いまのところ私は主に与えられる側なので、あまり体験する機会はありません。ボランティアなどをしてみるとよいかもしれませんね。小学校を含めいろいろな場所で募集していて、みなさん楽しく気軽にやっているみたいです。








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